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安政の大獄ってどんな事件? 分かりやすく解説します!〈後編〉

さて、天皇様を無視して
貿易を始めた結果
大バッシングを浴びた井伊直弼

荒ぶる国民を押さえようと
強硬手段に出ます。

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安政の大獄で弾圧開始

尊王攘夷が口ぐちに叫ばれ、
自分も幕府も非難を浴びる日々。

「すごい叩かれてる」
「これはちょっとまずい」

と、危機を感じた井伊さんは、
自分が先頭に立ち
激しい弾圧を始めます。

「幕府の信用がなくなっちゃうから、
これ以上批判しないでね」

ということで、
尊王攘夷の活動家たちを中心として
幕府を批判する人たち
次から次へと逮捕処罰しました。

その数100名以上。

謹慎などの比較的軽いものから、
斬首や切腹などの死刑まで
さまざまな刑罰がありました。

これが
安政の大獄と呼ばれる事件です。

 

権力を守ろうとしての弾圧でしたが、
結果的に幕府は
さらに大きな反感を買うことになりました。

特に不満を集めた井伊直弼は、
1860年暗殺されてしまいます。

襲撃を受けた場所からとって、
井伊直弼の暗殺事件は
桜田門外の変と呼ばれています。

井伊さんが亡くなると
幕府の権威はさらにダダ下がり。

尊王攘夷の思想は少しずつ
倒幕の思想へ
移り変わっていきました。

 

安政の大獄で処罰された人たち

安政の大獄で捕まった人の中には
結構な有名人もいます。

その1人は吉田松陰

吉田松陰は
松下村塾という塾を開いて、
身分に関係なく学問を説きました

この塾の生徒達がまた、
先生よりもさらに有名人。

高杉晋作桂小五郎
後の総理大臣・伊藤博文までが
彼の塾生でした。

井伊さんに捕まった後、
始めは島流しになる予定だった
松陰でしたが

「いやいや私は死罪でしょ」

と何故か自分から申告して
首をはねられてしまいます。

偉大な人の考えることは
なかなか難しいものですね…。

ただ、

死んで名前(志)が残るなら
いつ死んでもかまわない

というような
言葉を残しているので、
死罪は本望だったのかもしれません。

 

また、後に徳川幕府最後の将軍になる
一橋慶喜(徳川慶喜)も
一度は隠居に追い込まれていました。

なぜ安政の大獄で
徳川さんのお家の仲間の慶喜さんが
罰を受けているかというと…

実は井伊さん、
誰を次の将軍にするか
幕府内でも揉めていました。

黒船がやって来て
「これから仲良くしようねー!」と
日米和親条約を結んだ直後、
当時の将軍・徳川家定が亡くなります。

次の将軍候補にあがったのは、
徳川家茂さんと
前述の一橋慶喜さんの2人でした。

家茂さんは
とにかく血筋がいい少年。

 

一方慶喜さんは
血縁はちょっと薄いですが、
めちゃくちゃ優秀
頭がいいと評判の青年でした。

血筋か能力かで
揉めに揉めますが、
結局井伊さんが推していた
家茂さんが将軍になります

そして慶喜さん
慶喜さん派だったメンバー
どちらかというと攘夷思考

井伊さんにとって
意見は合わないし、攘夷派だしと
邪魔な存在だったわけです。

ですので、安政の大獄の際には
慶喜さん派の人たち
弾圧されることになったんですね。

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倒幕の始まりとなった安政の大獄

安政の大獄について
見ていただきましたが
いかがだったでしょうか?

何となく井伊さんは
悪者のように感じてしまいますよね。

勝手に貿易とか
弾圧ですとか…

しかし開国は
日本に必要なことでしたし
井伊さんも
幕府を守ろうとしてたわけです。

一概には何とも言えず、
難しいところです。

さて安政の大獄をきっかけに、
尊王攘夷運動
激しさを増していきます。

過激な攘夷派だった長州藩は
倒幕の意志を強め、
薩摩藩も幕府に不満を募らせます。

そして薩長同盟が結ばれ、
本格的な倒幕や大政奉還へと
時代は向かっていったのでした。

 

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