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新選組結成の理由と成り立ちって?羽織や誠の由来も解説!④

羽織や旗を作って
ルールも決まり、
形が整ってきた壬生浪士組

そんな中、
京都で大きな事件が起こります。

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「新選組」の名前を獲得

尊王攘夷派の中でも、
特に過激だった長州藩

この長州藩が天皇様に
武力的な攘夷を
勧めようとしているのが分かります。

会津藩薩摩藩

「長州ちょっと調子乗りすぎ」

ということで、
協力して京都から
長州藩を追い出しました

これが八月十八日の政変です。

この長州締め出し作戦の際に、
会津藩から
壬生浪士組にも出動命令が出たのです。
初の大仕事ですね。

「やってやるぜ!」

と意気込んだ壬生浪士組は、
天皇様の住んでいる
御所警備へと出動しました

ここで一つ疑問なのが、
なぜ幕府派の壬生浪士組が
御所の警備にあたったのか?
という点ですよね。

幕末の歴史は、
幕府派vs尊王攘夷派の構図で
語られることが多いので
ちょっと分かりにくいんですが…

基本的にこの時代の人達は、
天皇様を尊敬する尊王考えは
もっているんです。

幕府派だからといって、
アンチ天皇様ではないんですね。

御所の回りには
9つのがあるんですが、
この門はそれぞれ
別々の藩によって警備されていました。

その中には、
長州藩担当の門もあります。

しかし八月十八日の政変では、
会津藩と薩摩藩が全ての門を警備して
長州藩を御所に近づかせませんでした

さらに長州藩を
門の警備の担当からもクビにして、
京都から追い出したんです。

9つの門を守るのには
たくさんの人手がいりますよね。

そこで壬生浪士組
会津藩の部隊として警備に参加することになり、
御所(の門)を守ったんです。

このときの活躍が評価されて、
朝廷から新しい隊名
もらえることになりました。

それが新選組

新選組とは
昔に会津藩に存在していた
部隊の名前です。

この部隊は簡単にいうと
強い人しか入れない精鋭部隊

会津藩はこの部隊の名前が
壬生浪士組にピッタリだと考え、
朝廷にお勧めしてくれたんですね。

こうして壬生浪士組は、
新選組という隊名になったのです!

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新選組の完成

さて、八月十八日の政変から
新選組の名前をもらうまでの間に、
もう一つ事件が起きます。

実質No.1局長の芹沢さんが、
近藤さん派によって暗殺されたのです。

前に言いました通り、
超問題児の芹沢さんですから…

組内の秩序やら
世間からの評判も考えた上で
サヨナラしたわけですね。

この頃には、
芹沢さんと同じ局長だった新見さん
素行の悪さから
すでに切腹になっています。

芹沢さんたちがいなくなったことで、
局長近藤さん一人になりました。

ここで役職の組み直しが行われ、
副長だった山南さん
総長という役職になります。

総長は副長と同格、
もしくは局長と副長の間くらいの地位で
間違いなく幹部のポジションです。

山南さんはその博識さから、
隊士へのアドバイザーのような
立場だったそうですよ。

こうした編成が行われて、
現在でも有名な

局長:近藤勇
副長:土方歳三

この形の新選組
ついに完成されたのです。

 

戦い続けた新選組

新選組結成理由
成り立ちを見て頂きましたが
いかがでしたか?

新選組はもともと、
浪士組から始まっていたんですね。

局長が3人だったり、
スポンサー探しや組内での暗殺など…
本当に紆余曲折です。

そして羽織誠の旗は、
命を懸けた
思いの象徴だったんですね。

さて新選組はこれから

池田屋事件
油小路の変

など様々な事件を通して
尊王攘夷派、
アンチ幕府軍団と戦い続けます

結成から数年後には、
幕府の直接雇用にもなります。

大政奉還が行われ
幕府や将軍様の地位がなくなっても、
忠誠心を捨てることは
ありませんでした。

戊辰戦争の中で解散を迎えるまで、
幕府派・新選組
決死の戦いは続いたのです。

 

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【新選組が活躍した幕末とは?どんな歴史があるの?】
幕末ってどんな時代?歴史の流れを簡単に分かりやすく解説!

 

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