黒船来航の理由や背景を解説! 幕府vsペリーの行方は?〈後編〉
さて前編では
・黒船来航の時代背景
・ペリー提督がなかなか威圧的
といったところを
お伝えしました。
今回はその続きを
見ていただきたいと思います。
ペリーさんは
幕府へ手紙を持ってきました。
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黒船の帰還
ペリーさんは
当時のアメリカ大統領フィルモアから
手紙を預かっていました。
この手紙が
開国や貿易を求める親書であり、
黒船が日本にやってきた目的です。
幕府は始めに
与力(今でいう警察官のようなもの)に
手紙を受け取りに行くよう指示します。
しかしペリーさんは、
幕府の偉い人にじゃないと
お手紙は預けられません、
と受け渡しを拒否。
最終的に
「早く受け取ってくれないと
お宅の将軍様に直接渡しに行くけど?」
と、とっても威圧的な
交渉をします。
幕府は仕方なく
ペリーさん一行に上陸許可を出して
親書を受け取りました。
しかしこのとき
将軍である徳川家慶は
病気を患っていました。
ですので幕府は、
最高権力者の意見が聞けない状態なので、
すぐに返答はできない。
1年後にまた来てください。
と、勇気を出して
要求を突っぱねました。
がんばりましたね。
ペリーさんは
これを了承します。
しかしだからと言ってすぐには帰らず、
また勝手に測量してみたり
江戸の町ギリギリまで
船を乗り入れてみたりと…
しっかり
圧力をかけることは忘れず、
6月12日にようやく
浦賀湾を去っていきました。
日米和親条約と開港
さて1年後までに
答えを出さなくていけない幕府は
大混乱です。
異例ではありましたが、
海外との交流について
大名から一般の庶民にまで
どうするべきか意見を求めました。
しかし、いい案がでないまま
1年は過ぎてしまいます。
約束通り再登場したペリーさん、
今度は軍艦を
7隻に増量してきました。
戦っても絶対に勝てない…
でもこれ以上
答えを先延ばしにもできない…
幕府はやむを得ず
親書を受け入れ、
日米和親条約を締結します。
ペリーさんのおつかいは
晴れて終了です。
貿易だけはなんとか断りつつ、
下田と函館に
2つの港を開きました。
その後、
イギリスやロシア・オランダとも
同じ様な条約が結ばれて
日本の港が利用されるようになります。
こうして日本は開国し、
黒船の目的は達成されました。
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黒船来航から幕末に突入
黒船来航について
少し詳しく見ていただきましたが
いかがでしたか?
日本が開国を求められたのには、
捕鯨や貿易の中継ぎなど
色々な理由があったんですね。
さてさて
黒船来航のその後ですが…
始めは貿易を断った幕府ですが、
結局は貿易を
受け入れることになります。
外国に好き勝手な貿易を許したため
世間からはダイヒンシュク。
外国人を追い払おうという
攘夷論が流行ってしまい、
安政の大獄などの事件に繋がります。
さらには倒幕が叫ばれ
薩長同盟が結ばれるなど…
黒船来航をきっかけに
時代は激動の幕末へと
突入していきました。
ちなみに私はペリーというと
関根勤さんを思い出します。
何故かと言いますと、
関根勤さんが以前
ペリーのものまねをしてらしたんですよね。
当然ペリー本人なんて
見たことあるはずがないので
外人っぽい口調で「国ヲ開ケナサーイ」
と言うだけなんですが。
妙に面白いんですよねぇ、
動画とかあったら
ぜひチェックしていただきたいです。
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黒船来航の理由や背景を解説!幕府vsペリーの行方は?〈前編〉
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